最近読んだ本に「見立て」という言葉がありました。ひとつの役割を終えたモノに別の役割を見出し、新しい命を吹き込んでいくという考えです。なんだ「リサイクル」でしょ。ということなのですが、この「見立て」は「禅」の教えの中に出てくる古い言葉です。道具の使いようは「見立て」次第。結局、使い手の器量の問題なのだなぁと思います。
「禅」では余計なモノを持たないことを第一にしていますが、同時に持ち物を簡単に捨てないことも教えています。自分が用済みでも他に必要な人がいれば差し上げる。リサイクルショップに出せるようなら出す。別用途で使い道はないかと見立てる。最後に仕方ないので「捨てる」のです。
簡単に得るし、簡単に捨てる。そうやって暮らしてきてしまったような気がします。
打ち捨てられている木も、何かに生まれ変わらせることは可能かもしれません。それが空いた時間にチマチマと手を動かしてやっている制作活動です。自分の「見立て」がよければ廃材も素晴らしい新しい道具になれるでしょう。
「見立て」は、得るときにこそ必要。そんなふうにも思います。使い道が無さそうなものを手にしても、結局、持っているだけになってしまいます。そんなものに与えられる新しい命もまたないのだろうと思います。
見立てる力を育みたいです。