囚われたがり

民藝運動の祖、柳宗悦の遺稿を読んでいる。美とは何かについて、「書き遺しておきたい志を起こした」と始まる原稿だ。

言葉使いが現代とは違うので読み進めるのはかなりしんどい。読めない漢字を紐解きながら、都合三度読み返した。

自在、破形、無碍、直観、無知、奇数、曰く言い難し、異質、自力道。美しさの根元につながるキーワードが並ぶ。

定型に囚われることのない心と目によって美は創られ、見出される。そんなことが書いてあるのだと思う。

「自在力」を根底に据えて始まった民藝運動。そして、その100年後にブームと言っていい現在の民藝がある。思うに、始まりとその先端には大きな隔たりがある。それは柳たちパイオニアが示した「用の美」の単なる“一例”に、我々民藝ファンが囚われてしまっているように感じるからだ。

大衆的民藝とは、用の美とは、格好よいモノとはこういうものなのだと、情報として「知る」ことから入ってしまったために、自分の「直観」で見極めることに慣れていない。無垢、無銘だった民藝品がいつのまにかブランド化してしまい、決まった作家、産地のものしか欲しがられない。これではビッグネームが居並ぶ美術工芸の世界とあまり変わらないではないか。柳宗悦が最も嫌悪するであろう「自在」ではない未来の姿、そう見えるのだ。

「自在力」というのは、多様化が進んでいるとされる現代において最も必要なスキルだと思うが、現代ほど「ブーム」を期待している社会もないのではないだろうか。柳は美とは奇数だ、割り切れないところにその真価があると書いているが、今は完全に偶数思考である。トレンド、バズ、わかりやすさ。割り切れる数字、数行で判断できる見出しの明快さが評価され「正解」とされるのだ。自由を装ってはいるが、決して「自在」は許されない。

美しさとは、きっと。「定まっていないことの面白さ」そのものなのだ。実際に自分で見て、触って、使って、感じた自分だけの評価、「直観」を信じることが美意識なのだ。柳宗悦が遺したのは、絶対的な美の姿ではない。これはほんの一例、君たちも自由自在であれ、囚われるな。そういうメッセージを民藝運動を通じて遺したかったのではないかと思う。

囚われた方がラクではあるが、自在であることにも俄然、興味がわいてきた。

この記事を書いた人

CLUBER

Cultivator/ Yoshiaki Takanashi
ゴルフの雑誌作りに携わって20余年。独立起業してから5年が過ぎたモノ好き、ゴルフ好き、クラフト好き、信州好きな、とにかく何かを作ってばかりいる人間です。
ポジション・ゼロ株式会社代表/CLUBER BASE TURF & SUPPLY主宰/耕す。発起人
記述は2018年現在