爺ヶ岳と鹿島槍ヶ岳を望む。6月信濃大町にて。
朝、ウォーキング通勤していると路線バスと抜きつ抜かれつの展開になった。渋滞激しく、バスはアイドリング時間のほうが長い感じだ。歩きの私はペースを変えず、一歩ずつ確実に進んでいける。結局、3キロくらい並走したのち最後は私の方が300mほど引き離して、バス通りのカドを曲がった。
雑巾掛けが終わり、テラスを掃いていると声をかけられた。「あんた朝、ずっと歩いてたでしょ。私バスに乗ってたんだけどね、追い越されちゃったわ。歩いたほうが速いんだから、バスなんて意味ないよねぇ」と、おじさんがボヤいていた。
確かにあの渋滞では、イライラ間違いなしだ。でも、私は滝汗かきながら歩き続けていた。おじさんは冷房のきいた車内で座っていた。それで目的地までほぼ同着ならば、バスに乗った意味、あったのではないかと思った。乗り物はそもそも「楽」するために発明されたものだ。ほとんど歩かずにここまで来れたのだからよかったではないか。「いやいや江戸時代だったらこうはいきませんよ」と言いそうになったが、さすがにやめておいた(汗)
「楽」の次は、「速さ」を求める。「楽」「速」を手に入れたらきっと「手軽さ」を求めるに違いない。最初はミスに対する寛容性が欲しかった。次は飛距離も欲しくなった。最終的にはできるだけ安く手に入れたくなる。ゴルフクラブも同じだと思った。
おじさんのボヤきを聞いていて、1ヤードにも満たない自分の一歩を大事にしたいと思った。自分の力で歩くことを基本としていれば、きっとバスのありがた味も身に沁みるだろう。
バスも手段であり、道具だ。そのことを忘れてはならない。乗り物が無くなったら、歩くしかないのだ。頼っていては、歩けなくなる。頼っていては、きっと飛ばせなくなる。
一歩ずつ自分の足で。立ち止まらないことを大事にしたい。