松本で投宿したのが「旅館すぎもと」。美ヶ原温泉郷の老舗で何となくお一人様では予約しにくいというか、あまり予約取れない感じの老舗温泉宿だ。今はコロナの影響もあって比較的予約しやすい状況にあった。
ここでは館主のそば打ち見学が夕食前にできる。せっかくだから、見に行くわけである。
そばは「こねる」んじゃない。ひたすら桶の中で指を立てぐるぐる「回す」感じだった。
“こっちがまとめようとしないほうが勝手にそばの方からまとまってくる”と館主は言った。
蕎麦粉だけ。しかも全粒粉なので香り高いが繊細で切れやすいらしい。
棒もローラーという感じではなく、さわさわと表面を撫でるような感じで扱っている。
完成までにしっかり30分。最初見にきた夫婦はものの5分でいなくなった。とくに旦那は「自分でもそばを打つので興味深いっすわ」と言ってたのに、3分でいなくなった。見学希望があったからやっているのに、5分で見切りをつけるかね? と私は少し腹立たしく感じた。館主はきっと慣れっこだろう。都会からの旅行者なんてそういう感じが多そうだから。というわけで、今宵のそば打ちイベントは私と館主のマンツーマン。ポツリポツリと会話を楽しみつつ見守った。
「今日はどこか寄ってきたんですか?」と館主。
「松本民芸家具に椅子の修理依頼に行ってきたんです。工場も見せてもらえて面白かったです」と私。
この宿のインテリアは松本民芸家具が中心。もちろん中央民芸とは近しい間柄だ。
「民芸家具で職人の仕事を拝見し、今、そば打ちの大変さもみることができて、モノ作りのプロセスを見るって大事だなって思ってます。出来たモノへの思入れが違ってきますから」と私。
椅子もお蕎麦も。人の手が作り出した尊いものなのだと改めて感じられたことが幸せだった。
「家具っていえば、この間民芸家具の職人がウチに来てね、“お待たせしちゃってすいません”って椅子を一脚置いていったんですよ。私は頼んだ覚えはないけどって言ったんだけど、確かに3年前に注文してるって(笑) それで何だっけ?って考えてたら、あぁ確かに頼んだね、アレか!って思い出しましてね…。正直、今、出来上がって来なくてもって思ったんですよ。コロナでそれどころじゃないですから(笑) あそこに頼むといつ出来てくるかわからないんですよ。どうせ時間かかると思ってるとすぐ出来てきたり、今回みたいに何年も経ってから出来てきたり。タイミングがあるんですね(笑)」
結局、館主は旅館の経費にはできないので、自分の財布から椅子代を支払ったと笑った。そば打ちが終わったらその椅子を見せてくれるという。それが冒頭の椅子。あとで調べたら「マンティス」という名前の椅子だった。デザインはバーナード・リーチ。背と足の曲線が見事な作品だった。
「松本民芸家具はたぶん一定の数の注文がまとまってから作り始めるんですよ。この椅子は確かカタログにも載っていないし、発注そのものが少ないはずなんです。だから納品までに何年もかかっちゃったんでしょう」と館主。丁寧な仕事でなければ生み出せない上品な曲線。モノ作りは手が覚えているうちに同じ作業を繰り返した方が間違いもないし、仕上がりもいい。ある程度注文を貯めてから作り始めるというスタンスは、職人の出来上がりに対する責任感の表れでもあるのだと、とてもよく理解できる。
「美しい。間違いなくいい椅子ですね」と言ったら館主は嬉しそうだった。
今回の旅で、「待つ」ことができるヒトの素晴らしさを思った。待つとは、相手を思いやらなければできないことだ。
夕食どき。館主の打った十割そばは数量限定の別料金メニューとして案内された。件の夫婦も我先にオーダー。やー、うまいうまい、さすが!と大げさに騒いでいた。
5分で去った、持つことのできぬ者たちよ。工程すべてを見ていた私の方が、この蕎麦の旨味をかみしめることが出来ている。何倍も幸せなのだよ。
私はそばをすすりつつ、右の口角だけを上げた。