2本の20周年パターがあるところに、日本における「PING」の紆余曲折がある。私が以前取材したところによると、カーステン・ソルハイムが「ANSER」なる変わった形のパターを携えて、一人日本橋三越デパートを訪れたのは、1967年8月11日であった。それは当時、三越で応対した犬塚寿一さん(のちのピンジャパン代表)が大切に保管してあったカーステンの名刺によって明らかである。
三越は当初からのPING代理店の一角であり、その前にPINGが日本で売られていた可能性は、犬塚氏の話からしてもないと思われる。となると、PING 1985 JAPAN 20th記念パターとはなんなのか? 今更ながらに疑問がわいた。1965年といえばちょうど「ANSER(デールヘッド)」が完成した頃だ。ZIP CORDもSCOTTSDALEの時代で米国内でも異端児扱いされていた時期である。そんな時に日本にPINGが上陸したのだろうか? 米国で一定の評価を受け始めた1967年にひょっこりカーステンが日本橋に現れた。その流れの方が自然なような気がするのだが……。
1985年の記念パターは、少し謎めいている。
ともあれ、ピンゴルフジャパンとなって、創業家からジョン・Kソルハイムが日本法人の社長として送り込まれたことで日本での「PING」は急速に拡大した。本体が本腰を入れる、いや決定権のある経営トップが日本市場を理解するということが、如何に大切なのかを示すものであろう。
私はピンゴルフジャパンが創業した当時の社屋に取材に行ったことがある。本当に小さく、組み立てラインが1本か2本しかない、倉庫のような趣きだった。今や飛ぶ鳥を落とす勢いで、組み立てラインも拡充に次ぐ拡充。1組の数人はPINGのドライバーを使っている。実に感慨深い。
さて、次なる20年後のPINGの姿を私は見ることができるだろうか?
そろそろ怪しい年代に入ってきた。