民藝のこと

今年の春、ルーティンのように松本民芸館に立ち寄った。心落ちつける場所だからだ。展示物は見覚えのあるモノばかり。目新しくないから落ちつける、そんな気もした。

ただ、今回はその空間に息が詰まった。なぜか? それは多分、この民芸館が丸山太郎という蒐集家の蓄財によってのみ成り立っているからである。この先、何かが足されていく、あるいは生み出されていく気配を感じない。「時が止まっている」そう思った。

三代澤本寿の世界もそうだ。三代澤はもうこの世にはいないし、後継があるわけでもない。故人の残した作品でのみ「今」が動いている。これも時が止まっているのである。

民藝展が千葉みなとにやってきたので行ってきた。これは中之島美術館で始まり、全国各地の美術館をサーキットして千葉でファイナルを迎える一大イベントだ。私は出張ついでに中之島美術館で一度観ているから、今回は再訪といったイメージでいた。

しかし、内容は同じ企画展とは思えないほどだった。これは美術館の雰囲気もあるとは思うが、内容自体もダイジェスト版といった印象。民藝のことがさらっとわかるそんな感じだった。わからないが、これはこれで時が止まっている。柳宗悦やバーナード・リーチ、浜田庄司らの遺産、威光で「今」が動いている。そんな印象をもった。

彼らが見出した日用品に宿る「美」が、今は偉大なる先達たちが見出した「美」としてブランド化されて、企画展の最後はそれらが並ぶ「お買い物コーナー」へと送り込まれる順路となっているのだ。

名があるわけでもない市井の職人が作った生活道具の中に「用の美」を見出し、誰かが称える美でなく、自分自身が美しいと思える感性を大事にせよ。柳がそう提唱した民藝の精神は、まったく理解されていないのではないか? そんなふうに最近強く感じるようになった。結局は民藝も美術品のようなものになってしまっているのだ。

あなたが美しいと思うモノがすなわち美しいモノなのだ。どれが、何が美しいかは自分で決めてくれ。ちなみに私が美しいと思ったのはこういうモノたちなんだけど。そうやって蒐集家たちは自分の美意識に忠実であろうとし続けた。

私は民藝の世界に触れてから、自分の美意識に照らせば何かを思うほどでもないモノでも、「なるほどあなたが好きそうなモノですね」と認めることを覚えた。無理にそのモノを美しいと賛同したりはしない。ただ、あなたらしいねと心の底から認め、それが手に入ったこと、美しいと思えるモノに出会えた奇跡を一緒になって喜びあいたい。そう思えるようになったのだ。

民藝運動の先にはたぶん「自立」した社会がある。今で言うなら多様性の社会。他の考えに同調するはマストでなく、自分とは違う考えがあることを認めるがベストだと信じる。

多様性と言いつつ右だ左だ、白だ黒だと対立しまくっているのが今。結局、画一的になろうとしているように見えて、人間はつくづく難しい生き物だと感じる。

とにかく、私はそろそろ「民藝ショップ」の世界とはお別れのようである。

 

この記事を書いた人

CLUBER

Cultivator/ Yoshiaki Takanashi
ゴルフの雑誌作りに携わって20余年。独立起業してから5年が過ぎたモノ好き、ゴルフ好き、クラフト好き、信州好きな、とにかく何かを作ってばかりいる人間です。
ポジション・ゼロ株式会社代表/CLUBER BASE TURF & SUPPLY主宰/耕す。発起人
記述は2018年現在