敬うのか願うのか祈るのか慈しむのか、それさえ気にせず日常に参るのか。いずれにせよ足場が悪い季節になった。ご利益を求める人も、そのときだけ少々のお賽銭をぽっけに入れて参るのだろうが、ここにそれが存在し続けられている理由を考えるものは少ない。
有名だから、ご利益があるらしいから、人はそれとなしに噂を信じる生き物である。大金を積めばご利益率が上がるわけでもなく、せいぜいのりとが多くなるくらい。そこにお参りしないと罰が当たるわけでもないだろう。それでも参る人はいる。
転ばないように、そういう気持ちも込めてアンダーヒーティング付きの緩い階段がこの社には用意されている。少し遠回りだけれども、普段と同じように正面鳥居をくぐりぬけ手水で清め、社に参ることがかなうように配慮されている。
足腰が弱った人の為だけにこのルートがあるのか、天候不順の為だけにあるのか、考えを巡らせてみて欲しい。正面の階段を上るのが正規ルートなのかもしれないが、そこを選択できない事情の人の為にあるルートには愛があるように思う。
ゴルフはどうだ。グリーンに辿りつくまでの経路選択をティグランドから判別できるコースがどれだけあるだろうか。プロの競技会でもないのに狭いフェアウェイが格好いいと勘違いしているコースが大半のような気がする。球打ちだけ上級者の浅はかなセッティングにゴルフ愛はあるんか?
ハザードを可能な限り回避してもワンストロークくらいの差異になるルートは用意されているはずである。愛のある近代設計家にはそのくらいの思慮がある。マッケンジー博士の時代でさえそうだったのだから。